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矢板市の歴史と文化

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年3月18日更新

矢板市の歴史と文化

かつて矢板市周辺は「塩屋郡」と呼ばれていました。”郡”という地方行政組織の歴史は「大化の改新」(645年)まで遡れますから、おそらくこの頃には塩谷郡があったと思われます。「風土記」が作られたのは713年。各地方の様子を記した地誌ですが、私たちの地方のことを伝える、「下野風土記」が現存していないため、今のところ残念ながら、このような文字による記録からこれ以上探ることはできません。

しかし文字資料以前の、先人の足跡は太古の大地にしっかりと刻み込まれています。それ以前の1500万年程前の地層には、海だった時代の、クジラや魚、貝の化石が埋まっています。陸地化して氷河期を迎えた頃のものとしては、ナウマン象の歯の化石も出ています。

人の存在を伝える最古のものとしては、高原山麓で見つかった先土器時代の石器があります。少なくとも1万2千年以上以前に先人たちの生活があったわけです。その後縄文文化が花開き、高原山麓の豊かな自然の恵みを受容しながら、次の弥生時代へ移っていくことになります。弥生時代後期の集落は古墳時代に引き継がれ、前期古墳が小地域に出現します。たとえば「堀越遺跡」は、4世紀前葉の居館と考えられており、最近この遺跡の東丘陵上に墳墓が確認されています。さらに6世紀末から7世紀初頭と考えられる「番匠峰古墳群」からは美しい装身具を見ることができます。

奈良から平安時代は、律令制による人民の支配が行われ、天皇と貴族による朝廷政治が確立していく時代です。木幡神社は平安時代初頭の795年、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の戦勝祈願に建立したと伝えられ、国指定重要文化財になっている「本殿」「楼門」は室町中期の建造物ですが、平安末期から周辺を領土としていた「塩谷氏」の氏神としても知られています。平安末期は朝廷内の権力争いなどによって武士階級が力をつけ、いよいよ中・近世へと長く続く武士の時代への幕開けです。そうした中で塩谷氏の動向そのものが、時代の変遷とオーバーラップすることになります。

塩谷氏の初代・頼純は、源氏が東国に勢力を張るきっかけを作った八幡太郎義家を祖父に、流罪されて死亡する義親を父に持ち、摂津の国の堀江荘を拠点に活動し、堀江姓を名乗っていました。頼純自身も後に下野の塩谷郡へ流されますが、再起を期すように徐々に力をつけるいっぽう、塩谷氏姓を名乗り始め、三代目のときには「源平の合戦」(1180~1185年)でも活躍。塩谷(堀江)氏の興亡を題材にした「伊達鏡塩谷堀江記」には、家臣・長井次郎安藤太の話題も出て、長井村のこの武将の墓と思われる「五輪塔」が市の文化財のひとつになっています。塩谷氏は当初、御前原城を支配の拠点としたものと思われますが、五代目のときに鎌倉幕府の有力御家人だった宇都宮城主、宇都宮業綱の子・朝業と養子縁組。朝業は鎌倉幕府の有力御家人として活躍するだけではなく、文才に恵まれたことで、三大将軍実朝とも深い交流がありました。居城を平地の御前原城から丘陵の川崎城へ移す朝業は後年出家し、法名を関した歌集「信生法師集」も残しています。

室町時代になると、姻戚関係にある宇都宮氏といっしょに足利氏に仕え、1478年に再度宇都宮氏から養子を得ていますが、15世紀中ごろといえば足利家の権威も陰りを見せ、下克上の風潮が全国に広がっていました。主従や親戚関係の有無にかかわらずお互いに覇権をめざして激烈な戦いを展開していました。塩谷氏も無縁ではなく、戦国時代の戦いに明け暮れます。一般庶民の生活まで疲弊尽くす大混乱に収集が兆すのは16世紀後半、織田信長、豊臣秀吉の登場によってです。天下統一の仕上げともいえる秀吉の小田原・北条氏攻めがあったのは1590年。自身の周辺にいろいろな思惑を抱えた塩谷氏は、積極的に支援しなかったため後日、改易させられたといわれています。この地の領主の座を失った塩谷氏は、水戸佐竹家に仕えます。しかしそれも束の間、佐竹氏は秋田へ転封され、それに伴い秋田へ移ります。

塩谷氏の領地後の半分を引き受けるかたちで、矢板村530石を含む泉十五郷3800石を拝領したのは、家臣筋になる岡本氏。この岡本氏は徳川三代将軍・家光の時に内紛をとがめられ、1644年にお家断絶。その後このあたりは幕府直轄地、旗本あるいは藩領などに組み込まれて江戸時代を過ごします。

神社仏閣、史書関係のほとんどは時の権力者たちの手になる場合が多く、一般庶民たちの様子を主に伝えるのは信仰や伝承ですが、江戸時代へ入って各種の記録が残り始めていきす。矢板市でもこの頃の庶民生活の手がかりが数々残されています。その代表的なものが、国指定の重要文化財でもある「荒井家住宅」です。300年の時をゆうに超えた、江戸前期の庄屋の風情を色濃くとどめています。ここには「矢板宿」誕生のきっかけとなり、かつ俳聖・芭蕉も歩いた「日光(北)街道」、会津若松藩の物資を運ぶために作られた「原(牛)街道」、会津西街道の代わりに栄えた時代もある「会津中街道」などのほか、街道を結ぶ幾本もの道が通っていました。そんな旧道に佇むといまも、時代の息づかいを感じとれます。

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