「日本遺産」とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産」として文化庁が認定する制度です。
ストーリーの構成要素となる文化財群を総合的に整備・活用することで、観光資源として積極的に国内外へ発信し、地域の活性化を図ることを目的とするものです。
文化庁において、平成27年3月の事業創設以降、現在まで、104件が認定されています。
栃木県からの認定は、平成27年度に認定された足利市(茨城県水戸市、岡山県備前市、大分県日田市との共同)に次ぐものとなり、宇都宮市、益子町(茨城県笠間市との共同)を加え、計4件となっています。
矢板市では、平成28年度から、「日本遺産」認定を目指して、那須塩原市、大田原市、那須町と共同による「近代開拓史遺産日本遺産認定推進協議会」を設置し、「明治期の華族農場を中心とする那須野が原開拓の歴史」をストーリーとしてまとめ、平成30年2月に文化庁に申請し、平成30年5月24日に文化庁より「日本遺産審議委員会」の結果が通知され、正式に認定が発表されました。
その後、「近代開拓史遺産日本遺産認定推進協議会」から平成30年6月に「那須野が原開拓日本遺産活用推進協議会」を新たに設立し、PR事業をはじめとした情報発信や普及啓発事業を行ってきました。
文化庁では、令和3年度から「総括評価」・「継続審査制度」を導入し、登録日本遺産に対する3年ごとの「総括評価」・「継続審査」を進めています。
本市を含めた「那須野が原開拓日本遺産活用推進協議会」も、令和6年度に文化庁による「総括評価」・「継続審査」を受け、継続認定が認められました。
明治貴族が描いた未来~那須野が原開拓浪漫譚(ろまんたん)~
わずか140年前まで人の住めない荒野が広がっていた日本最大の扇状地「那須野が原」。
明治政府の中枢にあった貴族たちは、この地に私財を投じ、大規模農場の経営に乗り出します。
近代国家建設の情熱と西欧貴族のへの憧れを胸に荒野の開拓に挑んだ貴族たち。その遺志は長い闘いを経て、那須連山を背景に広がる豊穣の大地に結実しました。
ここは、知られざる近代化遺産の宝庫。
那須野が原に今も残る華族農場の別荘を訪ねると、近代日本黎明期の熱気と、それを牽引した明治の貴族たちの足跡を垣間見ることができます。
明治42年(1909)、山縣有朋(やまがた ありとも、公爵・内閣総理大臣)晩年の別荘として知られる小田原古稀庵に建てられた洋館です。
設計者は、建築史学者の伊東忠太。大正12年(1923)の関東大震災で崩壊したため、翌年、山縣農場内に移築されました。
現在は、記念館として山縣有朋に関する資料を展示しています。
山縣有朋記念館についてはこちら<外部リンク>
明治19年(1886)に山縣有朋が開墾した農場跡です。
現在も「第一農場」「第二農場」という名称が行政区として存続しています。
開拓と那須疎水開削に尽力した矢板武の旧宅です。
現在は記念館として整備され、那須野が原開拓等に関する資料を展示・保管しています。
矢板市は、標高の低い土地でリンゴが生産できる南限といわれ、現在は、14のリンゴ園が盛んに生産しています。大正3年(1914)、山縣有朋が青森県から技師を呼び、苗木を植栽したのが始まりとされています。
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