矢板 武
矢板武(1849~1922年)は、明治期のあらゆる分野において、矢板を軸とした栃木県北地域に多大なる功績を残した郷土の偉人です。活躍した分野は多岐に渡り、政治面はもちろん、経済界では日本の大動脈のひとつである国道4号や現在のJR宇都宮線(東北本線)の開通、地元銀行の設立から経営まで陣頭指揮をとり、その手腕を発揮しています。
その活躍は経済界にとどまらず、学校建設・整備に世界遺産である日光東照宮やその周辺の育成・保存、下野新聞社取締役会長も務め上げました。さまざまな偉業を成し遂げた矢板武ですが、中でも「那須野が原の開拓」は、矢板武抜きにして語ることはできません。福島県の安積疏水・滋賀県の琵琶湖疏水と並ぶ日本三大疏水の一つ「那須疏水」を交友のあった印南丈作とともに構築しました。
また、新国道(旧国道4号線:現在の矢板那須線の一部)の建設にあたっては、さくら市(氏家)から大田原市(石上)までをほぼ新路線として決定しました。新国道が内川を越えると、勝海舟の指令もあって、矢板邸の杉の巨木に赤旗を結び、これを目指して木幡地内から一直線に国道工事が行われたそうです。この国道を中心に矢板市の中心街が発展していきました。また、矢板武は、明治14年に設立された日本鉄道会社の理事であったことから、現在の矢板駅の場所を決めるのにも大きく関わったことになります。
矢板武は多くの人々との出会いや語らいを大切にし、そこから得たヒントを基に成功を収めていったものと考えられています。さらに教育の大切さを知る氏は、子どもたちの教育に力を入れるなど、後進の指導にも貢献しました。
このように矢板武は、現在の矢板市の発展に重大な影響を与えた有力者として恩恵が大きいことは、衆人の認めるところであります。
西暦 | 年号 | 年齢 | 事項 |
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1849 | 嘉永2 | 0 | 矢板村の坂巻家に生まれる |
1857 | 安政4 | 8 | 母)けい子死去 |
1859 | 安政6 | 10 | 父)五右衛門寿茂死去・家督を相続 |
1866 | 慶応2 | 17 | 矢板村組頭となる |
1869 | 明治2 | 20 | 矢板村名主となる |
1870 | 明治3 | 21 | 黒崎七郎右衛の娘ハマと結婚 |
1872 | 明治5 | 23 | 宇都宮県五大区六小区副戸長となる |
1873 | 明治6 | 24 | 栃木県第三大区四小区副戸長となる |
1875 | 明治8 | 26 | 郵便取扱役となる |
1876 | 明治9 | 27 | 第三大区三小区区長となる |
1879 | 明治12 | 30 | 初代県議会議員となる |
保晃会の幹事となる | |||
1880 | 明治13 | 31 | 矢板武・印南丈作で那須開墾社を組織 |
1882 | 明治15 | 33 | 日本鉄道株式会社理事となる |
1883 | 明治16 | 34 | 大水路建設請願のため上京 |
1884 | 明治17 | 35 | 印南丈作と上京を繰り返す |
1885 | 明治18 | 36 | 6回目の上京・那須疎水起工式・通水式 |
1886 | 明治19 | 37 | 矢板駅開設に尽力する |
1888 | 明治21 | 39 | 印南丈作死去開墾社社長となる |
1891 | 明治24 | 42 | 下野銀行を設立する |
1894 | 明治27 | 45 | 矢板信用組合を設立する |
1896 | 明治29 | 47 | 藍綬褒章を受ける |
1897 | 明治30 | 48 | 第二回県議会議員となる |
1898 | 明治31 | 49 | 下野銀行の頭取となる |
矢板銀行を設立する | |||
1904 | 明治37 | 55 | 日本赤十字社特別社員となる |
1907 | 明治40 | 58 | 日光銀行を設立する |
1911 | 明治44 | 62 | 下野新聞社取締役会長となる |
1915 | 大正4 | 66 | 勲六等瑞宝章を受ける |
1922 | 大正11 | 73 | 宇都宮の別邸で生涯をとじる |