学童疎開、この言葉は最早死語になってしまっているのでしょうか。
まして、この矢板市に東京港区から児童が疎開していたことなど、知っている人はごくまれになってしまったようです。
米軍機による第1回目の空襲は昭和17年で、これが19年になりますとほとんど毎日のように飛来して来て、日本の各地が焼土化されて行ったのでした。
このため、国民学校の3年生から6年生全員が、ほぼ強制的に疎開させられたのです。
市内では、泉竜寺と鏡山寺があてがわれ、ここに114名が分宿していました。
期間は、昭和19年10月22日から翌年の10月25日まででした。
この写真は、当時の児童たちが55年ぶりに泉竜寺を訪れ、それを記念して建てられたものです。
この記念碑は、我々に何を訴えているのでしょうか。
【泉竜寺】
【鏡山寺】