益子町と言えば、日本を代表する陶器の生産地ですね。
かつては、400軒を超す窯元があったと言われています。
その中でも、老舗と呼ばれる窯元を訪れますと、軒先に「寺山白土」あるいは「寺山釉薬」と書かれた札を目にすることがあります。
これこそが、今日の益子焼を支えた「土」なのです。
この写真をご覧ください。
ここに「釉薬原料置き場」と書かれていますね。
これは、寺山鉱泉前の広場に立てられていたものです。
この土を使うことによって、陶器の上に自由自在に絵が描けるようになったのです。
これを発見したのは、ドイツ人のワグネルという人です。
今から128年前の明治16年のことでした。(続く)